古里に愛される太宰

青森県・小泊 2017年7月7日版掲載

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昭和の日本を代表する作家、太宰治(1909年~48年)を初めて目にしたのは一枚の写真だった。

昭和20年代、東京・銀座の酒場「ルパン」は若い文士のたまり場だった。坂口安吾、織田作之助ら無頼派と称された作家の中心に太宰がいた。当時、ルパンの2階に事務所を持っていた写真家、林忠彦が、彼らを撮った一連の人物写真は、若い作家の日常を、いかんなく伝え、読者の目を引きつけた。その中でも、ルパンのカウンターで撮影された太宰の写真は、文士の人物写真を代表する記念すべき一枚でもある。

太宰は青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市)出身。本名は津島修治。大地主、津島家の6男として生まれ、裕福な幼少時代を過ごしたが、地主の子として悩むことも多く、多感な少年時代を過ごしている。

金木町にある生家は、太宰治記念館「斜陽館」として公開されており、町の観光の中心で。ある。付近には、太宰が疎開していた家や津軽三味線会館、お土産物屋が並んでいる。金木町には他にも文学碑や銅像がいくつも建っているのはもちろん、津軽地方全体でも至る所に記念碑がある。日本広しといえども、一人の作家がこれほどまでに生まれた土地で愛され、語られ続けられるとは驚きだ。

小説「津軽」は昭和19年、津軽風土記執筆のため、3週間ほど旅して書かれた作品だ。古い友人と会い、酒を飲み、歴史をひもとく旅の小説で、最終章には、太宰が3歳から6年間、子守として奉公していたタケと、30年ぶりに小泊で再会する場面が描かれる。太宰はタケによって今の自分が形成されたことを確信する。

小泊にはタケとの穏やかなひとときが銅像として残る。横では「津軽」の文学碑が二人を見守る。

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海山が挟む空間

新潟県・親不知 2017年6月2日版掲載

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富山県から国道8号を東へ進み、県境を越えると新潟県糸魚川市市振に出る。そこから先が天下の険「親不知子不知」だ。市振から先10㌔ほどは、かつて旅人たちが波間を縫って命がけで先を目指したのである。

その名の通り、親は子を、子は親を守ることもかなわぬぐらいの難所だった。そんな難所にも1883年には北陸街道が通り、1912年には汽車が走るようになった。それから100年、日本は大きく変わった。

私が東京で生活していた昭和39(1964)年の東京オリンピックの頃、富山から東京へ行くには夜行急行を利用して約10時間の旅だった。当時は蒸気機関車で冷房もない車内は、窓も開けられず、車内は蒸し風呂のような状況だった。その頃、東海道には新幹線が走り、東名高速も開通し、日本は高度経済成長に入って行った。

北陸地方にも昭和40年代後半には北陸自動車道が開通し、一昨年には東京―金沢間を約2時間半で結ぶ北陸新幹線の時代となった。

元JR北陸線(現・えちごトキめき鉄道)に親不知駅がある。今は、駅を挟んで線路と国道8号、北陸自動車道が交差している。近くのトンネルを、北陸新幹線も走っている。新幹線の開業により、親不知駅には今、上下とも1時間に1往復程度しか走っていない。以前は、停車せず通過していた急行や特急も走らなくなり、寂しい限りだ。

海と山に挟まれた小さな空間に集落がある。すべての交通機関が集まり、にぎやかなようだが、地元が利益を受けているようには見えない。写真は親不知の全景。

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成熟した日本文化

新潟県・佐渡島 2107年5月17日版掲載

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新潟県の佐渡は近くて遠いイメージがある。地図で見る佐渡は、日本海の荒海に浮かぶように見えるが、本当の佐渡は、夏はもちろん、冬も積雪は少なく、寒さも思うほど厳しくはないので、過ごしやすいようだ。さらに、大きな災害が少ないことが安心感につながっている。周囲を海に囲まれ、魚介類の宝庫。一年を通じておいしいお魚が新鮮なまま食べられるのは、都会人には考えられないことだろう。

問題は、今の少子高齢化で人口が減る中、どう若者の心をとらえる町づくりをしていくかだ。一つ提案がある。私が住む五箇山をはじめとして、今の日本の観光地は、外国観光客が圧倒的に多い。そこで、佐渡は外国人よりも日本人の心が癒される滞在型文化体験リゾート地を目指されたらいかがだろうか。

今の日本の若者は、本当の日本文化を知りたがっている。佐渡には、本物の日本文化がたくさんある。江戸時代、佐渡は天領であり、中央から離れていても独自の文化が育ち、今に伝わっている。島のいい点は、外からさまざまな文化が入って来るが、外にはあまり出ていかないことだ。その地で熟成される。

金山、銀山で栄え、北前船が経済の交流を生み文化が花開いたのだろう。佐渡には能舞台が数多く存在するし、「佐渡おけさ」をはじめ多くの民謡も歌い継がれている。

南佐渡の赤泊は、金銀の積み出し港で、北前船の出入りもあり、本州との玄関口でもあった。春の祭りには獅子舞やみこし、山車も町を練り歩く。獅子舞で奉納される剣舞は岩手から、山車は京都の祇園祭から伝わったものといわれる。写真は八幡若宮神社の春の祭礼。

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水辺の元気 今も

富山県・新湊の内川 2017年4月12日版掲載

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29年前、「柳川堀割物語」という映画を、長時間かけて見たことを時々思い出す。映画の中身は、福岡県柳川市を流れる水路網の物語で、製作は宮崎駿、脚本・監督は高畑勲。2人の巨匠による作品だ。

パンフレットによれば「日本が貧しかった頃、どの町にも堀割があった。水は必ずしも清くはなかったけれど、橋や水辺にたたずめば、水の流れは暮らしの重荷を軽くし、疲れをいやしてくれた」とある。当時はバブル景気の真っただ中。ゴミなどで決してきれいではなかった水辺は、都市計画の中で埋め立てられることもしばしばで、消えてしまった堀割も多かった。

その時、一人の柳川市職員の男性が「堀割が消えてしまうのではないか」と危機感を抱き、行動を起こし、市民をも巻き込む。水辺には人々の日常生活があり、自然と人との深い関係が、経済発展の名の下に見捨てられようとしていた。映画は、そんな危機的状況から住民がかつての堀割の姿を取り戻すまでを描く感動物語だ。

私の好きな場所の一つに、射水市新湊地区を流れる内川がある。30~40年前、内川の周囲には住民も多く住み、夜が明けないうちから漁船が漁場の日本海めがけて出航していく風景は、山育ちの私にとって、とても新鮮な風景だった。

当時に比べて今は人口も漁船も少なくなり、かつてのにぎわいは減った。それでも近年はカフェや食事処ができ、水辺の生活が観光資源に生まれ変わっている。映画のロケ地になったり、遊覧船が漁船の間を縫って観光客を楽しませている。内川の水辺は今も元気だ。写真は内川を走る観光遊覧船。

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浦々に集落の氏神様

島根県・松江 2017年3月15日版掲載

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日本ほど、文化が多種多様で、狭い国の隅々まで密度濃く詰まっている国も多くはないだろう。南北に細長く気候風土の違いが独特の衣食住文化を作ってきた。

各地を旅していると、どこでも寺院や神社が多くて、それも当たり前のように感じられてくるが、よく考えればそれぞれ長い歴史と深い意味がある。旅は信仰心を深め、癒しや健康、心の開放にもつながる。昔の人たちは、それらを上手につなぎ合わせて「四国霊場八十八札所」巡りから、身近な散歩コースにも近い「七福神巡り」など小さな旅までさまざまに楽しんできた。

島根半島にも「四十二浦めぐり」と称される民間信仰が伝わる。風光明媚な地を巡り、土地の氏神様にお参りをする江戸時代からの風習という。島根半島は東西約65㌔。日本海と、高くても500㍍ほどの山々からなる入り組んだ海岸線は変化に富む。海に面した厳しい自然環境の地にも、人々は集落を形成し、氏神を祀る。

旅人たちは、1~2週間かけて山あり川あり岩ありの険しい道を歩き、海水で身を清めながら、土地の氏神に家内安全、個人の冥福などそれぞれの想いを伝え、手を合わせたのだろう。

今は美保関から西の出雲まで道路も整備され車で走れる。所々トンネルで、海岸線に出たり入ったりの道だ。ほとんど平地のない集落は日中は人影もまばらで若者どころか年配者も少なく、地方の現実が見えてくるようだ。もう元気だった田舎は戻ってこないのか。残念無念。

写真は四十二浦の一つ、野波の日御碕神社。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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