変わりゆく冬の風景

新潟県・柏崎市 2010.12.15

12月にもなれば、雪国は冬支度で忙しい。山沿いでは雪囲いや越冬野菜の漬け込みなど、いつ雪が降ってもいいように準備が急がれる。昔に比べれば、雪が少なくなったとか、温暖化で暖かくなったと言われるが、そうは言っても五箇山ではひと冬に2~3㍍の雪は積もる。それでも冬は大変だと言われなくなったのは、除雪への機械力導入で労働時間が減り、精神的負担も少なくなったからだろう。
田舎でも道路は除雪され、交通の不便はない。家の周りも小型除雪機械やショベルカーなどが人間の何倍も仕事の能率を上げてくれる。それでも、何日も雪が降ると、雪が与えてくれる恵みのことも考えず「雪はもういらない」と人間中心になる。
私の小学校時代、わらぐつをはいた着物の子どもも裸足の子どももいた。寒くていつも鼻水を流していたし、甘いおやつはないに等しい。それでも苦しかった思い出はない。厳しい冬の自然の中で、早く春が来ることを待ち望んでいた。
今時の小学生はブランド物の防寒着に身を包み、お互い身を寄せ合いながら登校する。兄弟姉妹で助け合いながらの風景は変わらないが、子どもの数が少なくなっているのは寂しい限りだ。
戦後の高度成長以前の日本では、自然との共存の中で得た文化や知恵が大きな財産であり、国の根っこの部分だった。今、地方は人口減にあえぎ活気がなくなり、将来のわが国を暗示しているようでもある。大人は次の世代のために本物の日本を伝える必要がある。
写真は新潟県柏崎市笠島地区の小学生の登校風景。

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豊かな能登の文化

石川県・輪島市 2010.11.10

日本海側の小さな村や集落を旅していると、寂しい場所で数戸の家屋がひっそりとただずんでいたり、海辺の厳しい自然環境の中で集落が形成されていたりして、人間のエネルギーと知恵に驚かされる。激しい競争社会の都会に住む人々のエネルギーにも驚くが、地方に住む人々の日常は自然との共存であり、不便ばかりではない。都会の生活とは質がちがう。
今や、地方も道路は整備され、テレビやインターネットなどの充実で生活は豊かになり、決して都会に劣らない。そして何より地方には祭りや伝統文化が伝承されている。これほど多種多様な祭りや行事が受け継がれているのは世界でも日本だけだろう。島国であるがゆえに近隣で競い合った結果、似ているようで似ていない形が完成されていったのではなかろうか。
今、日本は観光立国として外国人の受け入れを増やそうとしている。その中で日本の地方が持つ豊かな自然、優しく勤勉な人々とその知恵、伝統文化は他にまねのできない財産になる。今までは都市が日本を引っ張ってきたが、これからは農漁業も含めて地方が日本をリードしていくという気構えを地方人は持つべきだ。
能登は地方のすべてがそろっている日本を代表する地域。1年を通して人々は、自然と伝統文化の中で意義深い生活を送っている。先人を敬いつつ。

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万葉線と変わる風景

富山県・射水市 2010.10.15

旧JR富山港線の廃線を受け、富山市は06年4月からライトレールの運行を始めた。愛称ポートラムの電車は駅間を短くしたり、本数も増やすなど、市民に親しまれるよういろいろ工夫されている。富山市の観光の目玉とまではいかないかもしれないが、県外客やレールファンの関心を集めている。
さらに市内の路面電車にレールを増設して環状線化し、新しい車体を投入してコンパクトなまちづくり、中心市街地の活力復活を狙っている。
一方、高岡市と射水市を結ぶ万葉線は、ライトレールの先輩ともいえる。万葉線の歴史は古く、1951(昭和26)年、富山市西町から高岡駅前までの運行でスタートした後、新富山発に変更になった。66年には富山新港開港で富山ー堀岡間が切断され、現在の高岡駅ー越ノ潟間の路線で今日に至る。
名称も射水線から万葉線に変わり、母体も富山地方鉄道、加越能鉄道から第三セクターと時代とともに変化した。
昭和50年ごろ、私が土地の老人から直接話を聞いて記憶に残っているのは、富山新港が出来るまでは,新湊周辺は日本一の風景だと思って生活していたということだ。「新港ができて風景が変わってしまい、今はさみしいね」と。当時稲を運ぶ笹舟が通る小川が流れ、とねりこ(稲をかけるはさ木)の並木が続き、越ノ潟にある小さな島の神社の祭りに舟に乗って行ったという。
今、越ノ潟の近くには海王丸パークも整備され、対岸の堀岡とつながる大橋も完成間近。風景は今も変わり続ける。写真は内川を渡る万葉線で、車体は赤くカメラの被写体にも向いている。

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変わらない風景

島根県・出雲大社 2010.9.15

1300年前の奈良時代、出雲国風土記が編さんされた。出雲国とその九郡について、地名の由来や伝承、神社などについて書かれた地誌だ。出雲地方に住む人々の日常生活や言い伝えなど独自の世界が記されている。
自然と向き合う祈りの心、旱ばつや大雨、台風など人知の及ばない自然の力に神を感じ、祈る。1300年を経ても今と変わらぬ人々の姿。伝承される祭りや行事は、日本の原風景といわれる出雲ならではだ。
出雲大社は大国主命を祭神とし縁結びの神社として広く知られる。新暦11月初旬、八百万の神が全国津々浦々から集まってくる。どこのだれとだれを結びつけようかと相談されるのである。八百万の神というから縁結びの神様ばかりではなかろうから、話はすべてうまくまとまるわけでもなさそうだ。現実にこの世は一度結ばれてもその後決して神の思うようには運ばない。
出雲大社の本殿は、古代神社様式の「大社造り」で、国宝に指定されている。今、3年後の本殿遷座祭にむけて大改修が進んでいる。60年に1度の大行事でご神体は本殿から拝殿に移されている。00年には本殿前の地中から巨大な3本柱が発掘された。直系が1.35㍍。本殿は今の2倍の48㍍の高さがあり、巨大な造りであったことがうかがえる。
写真は神楽殿に掛けられている重さ4.5㌧の大注連縄(しめなわ)で、形は雲を表している。人々と比べてみれば大きさが分かる。

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キリコと火祭り

石川県・能登島 2010.8.18

今年の夏は梅雨明けと共に極暑に見舞われ、日本列島がうだっている。
子どものころを思えば、夏はいつもカンカン照りで雨も降らず、毎日汗だくだった。家には冷蔵庫がないから、裏の池にはやかんのまま冷やしたお茶があり、横にはスイカやキュウリが冷えていたのを思い出す。昼ご飯が終わり、裏の戸を開ければ山の風が心地よく、みんなごろっと昼寝をしていた。寝たきりの年寄りもいなくて、みんなとても元気だった。
能登の夏は天気ばかりでなく、キリコを中心とした夏祭りで燃えている。キリコとは墨文字や武者絵が描かれた縦型のあんどんで、神輿の道中を照らす御神灯のこと。小さいものは4~5㍍、大きいもので12㍍もある。海の安全と豊漁を祈願する祭りで、カネや太鼓の音とともにキリコが闇の世界に浮かぶ様子は威厳があり、幻想的だ。
かつて漁師は、お盆や正月は船の上にいても、祭りの日にはキリコを担ぎに帰ったと言われ、熱気にあふれていた。今では漁業の縮小や若者の地元離れで昔ほどの熱気はない。それでも祭りのために都会から帰ってきた若者もいて、日常は見せない幸せいっぱいの表情が見られるのも伝統の持つ力といえよう。
七尾湾に浮かぶ能登島の向田(こうだ)の火祭りは日本三大火祭りの一つ。広場の中ほどに30㍍もの大たいまつを立て、その周りを神輿、キリコが練り、住民の手たいまつが乱舞する。最後は手たいまつから大たいまつに火が投げ入れられると、炎は天に向かって駆け上がる。大たいまつが倒れる方向で豊作、豊漁を占う。向田の火祭りは7月最終土曜日に行われる。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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