日本最古の土俵

石川県・羽咋市

昭和20年代の私の小学校分校時代。暗くて狭い校舎は、はなたれ小学生の元気な声が響いていた。夏はソフトボール、冬はドッジボールか相撲が体育のお決まりコースだった。お盆には村で一番大きな集落の境内に土俵が建造された。個人や地区対抗の戦いが繰り広げられ、娯楽の少ない時代、境内は村人の応援で盛り上がった。今ではあのような熱い風景はどこにも見あたらない。
当時ラジオから流れて来るのは相撲の実況放送だけで、栃錦や若乃花、朝潮といったスーパースターに、こたつに入りながら声援を送ったものだ。
54代横綱、輪島は能登・七尾市石崎の出身。学生相撲出身の初の横綱で、言動や生活は相撲界の常識からはみ出るもので、当時マスコミをにぎわしたものだった。輪島は金沢高校から日大に進んだが、金沢高校時代に相撲を取ったであろうと思うのが、羽咋市の唐戸山神事相撲である。
唐戸山神事相撲場は、日本で最古の約2000年の歴史がある土俵といわれ、神事相撲は水なし、塩なし、待ったなしのルールで毎年9月25日に行われる。加賀、越中、能登の若者が参加して、心技体を競い合う行事は現在も続いている。
相撲場の隅に小さな木造の建物がある。そこに一枚の大きな白黒の写真が飾ってある。すり鉢状の相撲場には何千人もの人たちが土俵を見つめ囲んでいる。一枚の白黒写真からは時を超えて多くの物語を伝えてくれる。写真の持つ力だろう。

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日常とかけ離れた地

青森県・五所川原市

子どものころ、隣家の薄暗い座敷で、地獄絵図の掛け軸を見たことがある。閻魔大王や赤鬼、血の池地獄などがおどろおどろしく描かれていて、子どもにとっては十分に強いショックを受けた。
その後、下北半島の恐山の話を耳にした。その地が霊場で死者の声を聞くことができるとなると、子どもの時の地獄絵図につながるようで興味がわき、一度は訪ねてみたいと思ってはいるが、いまだに果たされていない。
今度の旅は青森県津軽半島にある、太宰治の生誕地、金木町(現・五所川原市)の「川倉賽さいの川原地蔵尊」の地。恐山ほど知名度も規模も小さいが、死者に会いに、縁者が全国から集まるのは同じである。
3月の晴れた強い風が吹く寒い日、こぢんまりしたお堂や周囲の林の中にある小さな祠ほこらの周囲にも残雪がところどころに見える。祠の中には数体の地蔵が色とりどりの前掛けをして陽を浴びている。お堂の中にも多くの地蔵が並ぶが、ここにもシーズンオフがあるのか、扉を閉ざし人影も見えない。
プラスチック製の風車がカラカラと時を刻んでいる。暖かくなれば、多くの人々が亡くなった肉親や友人に会いに訪れ、にぎわうだろう。日常とはあまりにもかけ離れた地だとは思うが、人間の命が軽く見られる今の世、子どもも大人も一度この地に足を運んでみてはどうだろう。賽の川原地蔵尊は、テレビやケイタイの文化とは正反対の所にある。

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漁村に日本の原風景

島根県・出雲市

民俗学者、宮本常一(1907~81)。瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島に生まれ、地球4週分に当たる約10万㌔の足跡を日本列島に残している。
旅に暮らした日々は4000日以上。驚くことに旅で撮影した写真は10万点以上に及ぶ。今のデジタル時代と違い、36枚フィルムで換算すると約2800本とものすごい量である。
宮本は若い人たちに言っている。「ハッと思ったら撮れ。オヤッと思ったら撮れ」と。宮本が撮っているのは芸術写真でもなければ証拠写真でもない。海岸の漂流物だったり、洗濯物であったり、普通は目を向けないものだ。何の変哲もない風景の中に時代が見えるとシャッターを押し続けた。
私がカメラの仕事を選んだのも旅をしたかったからだと思う。一人旅や家族旅行、先輩や友人と多くの旅を経験してきた。それより人生そのものが旅の連続だったような気がする。その中でどれだけシャッターを押してきたのだろうか。シャッターは自信がないと押せない。私はまだまだシャッターを押す回数が少ない。宮本が10万回もシャッターを押し続けたのは、社会を見る目の力、意志があってのことだ。
日本海に面した島根半島にある塩津は、わずかの土地を活用しながら漁村を形作っている。晴れた日の漁港には人影も見えない。漁船が青い海面に気持ちよさそうに浮いている姿は楽園のようだ。ここには日本の原風景がある。

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雛も北前船に乗って

山形県・酒田市

私にとっての東北の玄関は山形県酒田市になろう。“写真の鬼”と呼ばれた土門拳記念館があるからだ。秋田県や青森県に向かうにしても、一度は記念館に寄る。土門が撮影した仏像は静かな中で語りかけてくる。身が引き締まる。
酒田市は最上川河口を中心に日本海航路が開かれ、北前船の拠点として繁栄と富をもたらす。中心となったのが日本一の大地主と謳われた本間家だ。元禄2(1689)年に初代が新潟屋を開業、三代光丘が千石船で商いを始め富を築いていく中で、農業振興や土地改良、水利事業など今で言う公共事業に努め、地域の発展に尽くす。地域貢献が認められ、藩主酒井家の信望を得、商人でありながら武士の身分を許されたのである。
市内にある「本間家旧本邸」は当時の繁栄を今に伝えるものだ。三代光丘が本陣宿として1868年に新築し藩主酒井家に献上、後に拝領した。二千石旗本の格式を持つ長屋門構えの武家屋敷造りで、内部は商屋造りにもなっている。一つの建物に二つの建築様式を併せ持つのは全国的にも珍しいという。
3月には「酒田雛街道」(4月上旬まで開催)として市内各地でお雛様が公開されている。北前船で京都から運ばれて来たものもあり、豪華で風格がある。
日本海を旅して思うことは、明治以前の日本文化の豊かさだ。私たちは今、次世代に何を残すことが出来るのか、考えなければならないだろう。

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烈風に耐え「春」を待つ

石川県・輪島市

海岸の防波堤に立っていると、海からの風で体が飛ばされそうになる。両足で踏ん張って立っていようとしても大変だ。こういう強い風が数日吹き続くことも珍しくないらしい。
ここは能登半島の中ほど、輪島市中心部から西へ約15㌔の上大沢地区。小さな川を挟んで集落がある。家が何軒ぐらいあるのかは、見た目には分からない。集落の外側は間垣(まがき)と呼ばれる高さ3~4㍍の竹で囲まれていて、中がよく見えないからだ。
数ヵ所に内と外をつなぐ入り口がある。内と外は別世界のようであり、寒いから人影もなく様子が分からない。家々は狭い道で結ばれていて、家々のつながり、人々のつながりがどこよりも強いように思える。都市社会では見ることのない風景だ。どれだけの人々がここで生まれ、外の社会へ旅立っていったのだろうか。若者がここから巣立ち、再び戻って来ることもあるのだろうか。そんなことを思う。
地方は少子高齢化で活気をなくしつつある。限界集落と言う聞き慣れない言葉も耳にする。しかし今の日本で、都市が良くて地方が住みにくいということはない。地方から見れば都市が急激に悪化しているのが分かる。これからは地方の役割も重要になるだろう。
ここ上大沢地区の強い風ももう少しすれば止むだろうし、春になれば心地よい浜風も吹くだろう。間垣も夏になれば日よけにもなる。人間我慢すること、耐えることも大事。その先には明るい話も生まれることだろう。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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