雛も北前船に乗って

山形県・酒田市

私にとっての東北の玄関は山形県酒田市になろう。“写真の鬼”と呼ばれた土門拳記念館があるからだ。秋田県や青森県に向かうにしても、一度は記念館に寄る。土門が撮影した仏像は静かな中で語りかけてくる。身が引き締まる。
酒田市は最上川河口を中心に日本海航路が開かれ、北前船の拠点として繁栄と富をもたらす。中心となったのが日本一の大地主と謳われた本間家だ。元禄2(1689)年に初代が新潟屋を開業、三代光丘が千石船で商いを始め富を築いていく中で、農業振興や土地改良、水利事業など今で言う公共事業に努め、地域の発展に尽くす。地域貢献が認められ、藩主酒井家の信望を得、商人でありながら武士の身分を許されたのである。
市内にある「本間家旧本邸」は当時の繁栄を今に伝えるものだ。三代光丘が本陣宿として1868年に新築し藩主酒井家に献上、後に拝領した。二千石旗本の格式を持つ長屋門構えの武家屋敷造りで、内部は商屋造りにもなっている。一つの建物に二つの建築様式を併せ持つのは全国的にも珍しいという。
3月には「酒田雛街道」(4月上旬まで開催)として市内各地でお雛様が公開されている。北前船で京都から運ばれて来たものもあり、豪華で風格がある。
日本海を旅して思うことは、明治以前の日本文化の豊かさだ。私たちは今、次世代に何を残すことが出来るのか、考えなければならないだろう。

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烈風に耐え「春」を待つ

石川県・輪島市

海岸の防波堤に立っていると、海からの風で体が飛ばされそうになる。両足で踏ん張って立っていようとしても大変だ。こういう強い風が数日吹き続くことも珍しくないらしい。
ここは能登半島の中ほど、輪島市中心部から西へ約15㌔の上大沢地区。小さな川を挟んで集落がある。家が何軒ぐらいあるのかは、見た目には分からない。集落の外側は間垣(まがき)と呼ばれる高さ3~4㍍の竹で囲まれていて、中がよく見えないからだ。
数ヵ所に内と外をつなぐ入り口がある。内と外は別世界のようであり、寒いから人影もなく様子が分からない。家々は狭い道で結ばれていて、家々のつながり、人々のつながりがどこよりも強いように思える。都市社会では見ることのない風景だ。どれだけの人々がここで生まれ、外の社会へ旅立っていったのだろうか。若者がここから巣立ち、再び戻って来ることもあるのだろうか。そんなことを思う。
地方は少子高齢化で活気をなくしつつある。限界集落と言う聞き慣れない言葉も耳にする。しかし今の日本で、都市が良くて地方が住みにくいということはない。地方から見れば都市が急激に悪化しているのが分かる。これからは地方の役割も重要になるだろう。
ここ上大沢地区の強い風ももう少しすれば止むだろうし、春になれば心地よい浜風も吹くだろう。間垣も夏になれば日よけにもなる。人間我慢すること、耐えることも大事。その先には明るい話も生まれることだろう。

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浜はハタハタ一色

秋田県・北浦港

島国の日本は四方を海に囲まれ、魚をよく食べる。私のように山育ちは子どものころ、新鮮な魚を食べる機会はほとんどなく、魚といえば乾き物か塩物が中心で、ニシンの麹漬けや塩ザケなどが一番の思い出である。今とは違い交通の便も悪く、保存方法もない当時としては普通のことだった。
日本列島は南北に長いから、土地それぞれに取れる魚も種類も多く、特徴がある。南はフグに始まり、カニ、ブリ、ハタハタなどうまい魚が多く、特にこれからの季節は楽しみである。魚は体に優しく健康にも良いから、私のように年を重ねると、ありがたい。
早朝の定置網漁に同行させてもらったり、魚市場や出港風景など、魚や海に関する撮影は、自然相手の仕事だからその都度条件も違い、こちらの思うようにはならない。自分の視点がしっかりしていないと、相手に振り回されて思うように撮れない。相手を見ることが始まりで、動きが見えてくるようになれば、カメラをのぞくことになる。市場などは仕事の邪魔にならないよう、時には許可を取ることも必要だ。あくまでカメラマンは部外者だから。
秋田のホテルで、今がハタハタ漁の最盛期で浜は活気づいていると聞いた。早朝ホテルを出発し、男鹿半島の北の付け根、北浦港に向かう。小さな漁港ではハタハタ一色。それ以外のものは見当たらない。青いシートにものすごい量のハタハタ。撮影のポイントがなかなか決まらない。まずは大量のハタハタのアップの撮影から始めた。

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土門拳 執念の現場

鳥取県・三佛寺

開山1300年を迎えた三徳山三佛寺は、鳥取市から南西へ約1時間の三朝町にある。近くに三朝温泉や倉吉市がある。
三佛寺を知ったのは、30年前にもなろうか。写真家、土門拳が病気で1度倒れてから三佛寺の奥の院、国宝・投入堂を撮影した話を聞いた時だった。当時土門は半身不随で車いすの生活だった。投入堂へは、助手が背中におぶさって山に登り、シャッターは自分で押せずレリーズ(シャッターをカメラから離して開放させる道具)を手にひもで巻き付けての撮影だった。
重い病を持ちながらの命がけの撮影は何だったのかを知りたくて、土門の執念の現場をいつかは見たいと思っていた。そこで島根半島の旅の帰りに、投入堂の撮影を決行することにした。
お寺の参拝と撮影のため、いろいろ調べていると、気合を入れて登らないと事故になりかねないと思った。
県道脇の駐車場に車を止め、宿坊が並ぶ石段を登ると本堂が迎えてくれる。本堂の裏に登山事務所がある。ここから先の投入堂までは勝手に入れない。入山許可が必要だ。2人以上で登ること、山登りに適した靴か、などのチェックを受けて入山が許可される。
標高差200㍍とはいえ、往復1時間半ほどの道のりはうわさ通り険しい。修験者の修行の地であることを思い知らされる。観音堂を過ぎるとようやく投入堂が姿を現す。登山者も45度くらいの傾斜の一枚岩の上で岩にしがみついての参拝となる。巨大な岩に抱かれた投入堂は実に不思議な姿で表現の言葉がない。1300年の年月と人間が持つ計り知れない何かに驚き、現代社会との違いを感じた。

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歴史ある港 今はひっそりと

石川・福浦港
昭和30年、40年代の写真の世界は、白黒写真が中心で、風土や風俗を中心にプロ、アマ問わず土くさい写真が主流をなしていた。そのころ、日本を代表する写真家、木村伊兵衛が「秋田」を、濱谷浩が「日本海」をテーマに発表。「裏日本」と言われていた日本海側の農漁村の自然と厳しい生活環境が、グラフ誌や週刊誌の写真を通して、都市でも知ることができるようになった。
当時、アマチュアカメラマンは会社の写真クラブや町の写真やさんが主宰するクラブを中心に活動していた。現代のように手軽にカメラを買えるわけでもなく、望遠レンズやズームレンズも無い時代。カメラ一台、レンズ一本、フィルムも節約して写したものである。家に帰れば、急ごしらえの暗室で引き伸ばし機と格闘しながら写真と取り組んだ。今にして思えば写真の世界が一番楽しくて夢のある時代だったと思われる。
北陸では特に、能登地方の風土や祭りが、カメラマンの願ってもない被写体で、多くの素晴らしい写真が生まれた。写真の撮影地は石川県富来町(現・志賀町)の福浦港。1300年前から中国・渤海国と交流があった歴史ある港で、今はひっそりとしている。30、40年前の写真と比べても大して変わりなく、人影、船の姿も少なく、悪くいえば活力が感じられない。今の日本の地方からエネルギーが感じられなくなるのは寂しい限りである。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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