遠くに動く赤い帽子

島根県・出雲市

「どういう写真を撮られていますか」と、よく聞かれる。自身の写真の傾向を他人に話すことは難しい。地方にいて写真の仕事をしていれば、これが得意、これが好き、と言っていれば仕事の依頼は少なくなる。それでも相手(発注先)からすれば、あいつはこの分野が得意で、アレが下手と知らぬ間にレッテルが張られている。本人も力の入る仕事とそうでもない仕事が区別されてくる。年月が得意、不得意を作っていく。
私の20~30歳代のころ、カメラを持って出かけた先には、老人や仕事に熱中している人たちが写っている。あの頃の人生を生き抜いた顔は、今の同じ年代に比べて、人間としてはるかに深みがあり魅力的だったと思う。それは町行く人たちでも、畑仕事をする人、職人さん、飲み屋のおじさん、作家と言われる人たちにも通じる。
日本海写真の旅は、21世紀の日本海に住む人たちと自然とのかかわりを自分の眼で確認し、高度経済成長後の日本をカメラに収めることだ。車で走っていても、目にとまるもの、通り過ぎていくものそれぞれで、しばらくして引き返し、カメラを構えることもある。この感じは言葉では言い表せない直感だ。
遠くに小さな赤い帽子が幾つも動いている。近づくと幼稚園児が田んぼに案山子(かかし)を立てている。都会の子どもたちには経験できない自然とのかかわり。園長さんの許可も得た。子どもたちの声が聞こえてきそうな写真が撮れたらいいな、とシャッターを押した。

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海に浮かぶ家並み

京都府・伊根町

私の住む富山・五箇山から丹後半島・伊根町の伊根湾舟屋の里まで約350㌔ある。北陸自動車道を敦賀で降り、小浜、舞鶴、天橋立、伊根と一般国道を走ることになる。日本の高速道は太平洋側は一本で結ばれているが、日本海側はとぎれとぎれで一般国道を走るから旅を楽しむにはこの方がいい。その分、今の高速道路割引、特にどこまで行っても1000円という恩恵は受けられないが。
伊根湾をグルッと囲んで建つ舟屋は約350軒もあり、ほかの地では見られない景観である。この地区は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、文化財法で保護されている。
伊根湾は天然の良港と言われ、古くは湾に追い込んだ鯨を銛(もり)一本で仕留めた時代もある。今は定置網で捕れるブリが日本三大ブリに数えられている。
それにしても海面すれすれに建つ家は、満潮や台風の時には大丈夫なのかと他人事ながら心配になる。1階は舟の格納庫で、2階が居住スペース。1階の一部は海の中と言ってもいい。対岸から見れば、海に家並みが浮いているように見える。今、全国的に町並み保存が叫ばれているが、舟屋の美しい風景を見ていると、そこに生活している人々が50年後まで今の形を伝えていくのは大変だろうと心配になる。
自然と一体となった家並みを撮影するには、朝晩の光をうまく取り入れることが写真を生き生きとさせる。舟屋の2階を民宿として開放している家もあり、海辺での一夜もいいだろう。しかし、この地は生活の場。住民のプライバシーには十分に気を遣うことである。

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日本最古の土俵

石川県・羽咋市

昭和20年代の私の小学校分校時代。暗くて狭い校舎は、はなたれ小学生の元気な声が響いていた。夏はソフトボール、冬はドッジボールか相撲が体育のお決まりコースだった。お盆には村で一番大きな集落の境内に土俵が建造された。個人や地区対抗の戦いが繰り広げられ、娯楽の少ない時代、境内は村人の応援で盛り上がった。今ではあのような熱い風景はどこにも見あたらない。
当時ラジオから流れて来るのは相撲の実況放送だけで、栃錦や若乃花、朝潮といったスーパースターに、こたつに入りながら声援を送ったものだ。
54代横綱、輪島は能登・七尾市石崎の出身。学生相撲出身の初の横綱で、言動や生活は相撲界の常識からはみ出るもので、当時マスコミをにぎわしたものだった。輪島は金沢高校から日大に進んだが、金沢高校時代に相撲を取ったであろうと思うのが、羽咋市の唐戸山神事相撲である。
唐戸山神事相撲場は、日本で最古の約2000年の歴史がある土俵といわれ、神事相撲は水なし、塩なし、待ったなしのルールで毎年9月25日に行われる。加賀、越中、能登の若者が参加して、心技体を競い合う行事は現在も続いている。
相撲場の隅に小さな木造の建物がある。そこに一枚の大きな白黒の写真が飾ってある。すり鉢状の相撲場には何千人もの人たちが土俵を見つめ囲んでいる。一枚の白黒写真からは時を超えて多くの物語を伝えてくれる。写真の持つ力だろう。

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日常とかけ離れた地

青森県・五所川原市

子どものころ、隣家の薄暗い座敷で、地獄絵図の掛け軸を見たことがある。閻魔大王や赤鬼、血の池地獄などがおどろおどろしく描かれていて、子どもにとっては十分に強いショックを受けた。
その後、下北半島の恐山の話を耳にした。その地が霊場で死者の声を聞くことができるとなると、子どもの時の地獄絵図につながるようで興味がわき、一度は訪ねてみたいと思ってはいるが、いまだに果たされていない。
今度の旅は青森県津軽半島にある、太宰治の生誕地、金木町(現・五所川原市)の「川倉賽さいの川原地蔵尊」の地。恐山ほど知名度も規模も小さいが、死者に会いに、縁者が全国から集まるのは同じである。
3月の晴れた強い風が吹く寒い日、こぢんまりしたお堂や周囲の林の中にある小さな祠ほこらの周囲にも残雪がところどころに見える。祠の中には数体の地蔵が色とりどりの前掛けをして陽を浴びている。お堂の中にも多くの地蔵が並ぶが、ここにもシーズンオフがあるのか、扉を閉ざし人影も見えない。
プラスチック製の風車がカラカラと時を刻んでいる。暖かくなれば、多くの人々が亡くなった肉親や友人に会いに訪れ、にぎわうだろう。日常とはあまりにもかけ離れた地だとは思うが、人間の命が軽く見られる今の世、子どもも大人も一度この地に足を運んでみてはどうだろう。賽の川原地蔵尊は、テレビやケイタイの文化とは正反対の所にある。

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漁村に日本の原風景

島根県・出雲市

民俗学者、宮本常一(1907~81)。瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島に生まれ、地球4週分に当たる約10万㌔の足跡を日本列島に残している。
旅に暮らした日々は4000日以上。驚くことに旅で撮影した写真は10万点以上に及ぶ。今のデジタル時代と違い、36枚フィルムで換算すると約2800本とものすごい量である。
宮本は若い人たちに言っている。「ハッと思ったら撮れ。オヤッと思ったら撮れ」と。宮本が撮っているのは芸術写真でもなければ証拠写真でもない。海岸の漂流物だったり、洗濯物であったり、普通は目を向けないものだ。何の変哲もない風景の中に時代が見えるとシャッターを押し続けた。
私がカメラの仕事を選んだのも旅をしたかったからだと思う。一人旅や家族旅行、先輩や友人と多くの旅を経験してきた。それより人生そのものが旅の連続だったような気がする。その中でどれだけシャッターを押してきたのだろうか。シャッターは自信がないと押せない。私はまだまだシャッターを押す回数が少ない。宮本が10万回もシャッターを押し続けたのは、社会を見る目の力、意志があってのことだ。
日本海に面した島根半島にある塩津は、わずかの土地を活用しながら漁村を形作っている。晴れた日の漁港には人影も見えない。漁船が青い海面に気持ちよさそうに浮いている姿は楽園のようだ。ここには日本の原風景がある。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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