情緒満点の温泉津

島根県・大田市 2017年2月15日版掲載

IMG_0624 (640x427)

昨年11月、12年ぶりに島根県大田市の「石見銀山遺跡とその文化的景観」を歩いてきた。世界遺産に登録された当時は、観光客のため自動車道は終日混雑が続き、住民の生活に支障をきたしているとテレビで報じられていた。それも既に10年前のことになる。

世界遺産エリアの大森地区に着いたのは平日の午後3時ごろで、地区内は人通りも少なく閑散としていた。予想以上の静かさで、少し寂しい気もした。その夜は、世界遺産構成資産地区の温泉津(ゆのつ)温泉に宿を取った。重要伝統的建造物群保存地区で、数軒の温泉旅館と、2軒の共同浴場がある。海から山側へ延びるメイン通りは、細く曲がりくねっている。中程に創業90年の温泉宿がある。

夕食は地元で水揚げされた新鮮な魚が中心で、家庭的な温かみのある会席料理である。円満風呂と名付けられた石の湯船には、湯の花が付着し、茶褐色で情緒満点。一日の疲れを癒してくれる。朝の散歩のため、6時過ぎに宿を出る。暗い中を、足早に出かける人もいて、一日の始まりを感じる。

宿の隣の共同浴場に灯がついている。入浴料を払い、中に入ると、木造の建物は昔の小学校の分校の匂い。棚には住民の風呂おけセットが並んでいる。湯船は熱い湯とぬるい湯の2種類。ぬるい湯に3人の客が顔を赤らめながらつかっている。湯につかり、隣の人が動くと熱い湯がヒリヒリと肌をつく。「熱いですね」と言うと、43度、と笑いながら教えてくれた。「隣のお湯は何度ですか」と聞くと、47度とのこと。石川五右衛門の釜ゆでの様相である。写真は温泉津温泉街。

入館案内

鮭文化の発信地

新潟県・村上市 2016年12月14日版掲載

IMG_5969 (640x427)

私の住む五箇山は、50年前と今とでは、食生活に大きな違いがある。かつては、食品の数も限られ、冬場に生鮮食品を食べる機会はなかった。子供の頃、毎日毎日同じものが食卓に並んでも、だれも文句を言わず「いただきます」「ごちそうさま」といただいていた。

今はスーパーに行けば、日本産ばかりか、世界中の輸入食品が並んでいる。冷凍食品なるものも生まれ、食生活は大きく変わった。

子供の頃、刺し身を食べた記憶はなく、正月の魚屋さんの店頭には雪の上に数匹の鰤が並び、軒先には鮭がつるされていた。誰でもが買って食べられるものではないほど高価だった。鮭の切り身を食べたような気もするが、本当だったのかどうか、今となっては定かではない。

はっきりと覚えているのが、囲炉裏で身厚の塩イカを焼いて食べたことだ。正月にしか味わえないごちそうで、言葉では表せないほど幸せを感じたものだ。今年の秋は朝晩の冷え込みが弱かったため、紅葉はいまいちパッとしなかった。それでも時期が来れば、カニ漁が解禁され、11月の末には寒鰤宣言もあって浜は年末に向けて活気づいていく。

鮭も年末から正月には欠かせない魚だ。鮭は日本ばかりでなく世界中の食卓に上る。新潟県村上市は日本の鮭文化の発信地だ。暮れになれば、市内の至る所で、村上でしか見られないであろう、しっぼからつるされた鮭を目にすることができる。

約230年前、当時の藩主が鮭の保護に尽力したことに敬意を表し、頭からつるさないのだという。市内を流れる三表川には多くの釣り人が威勢良く鮭を釣り上げている。正月の準備だろうか、それとも大切な人に贈るのだろうか。

入館案内

静かな日常 息づく

秋田県・角館 2016年11月16日版掲載

imgp0201-640x427

全国約100の自治体が加盟する全国伝統建造物群保存地区協議会(伝建協)という組織がある。武家屋敷や宿場町、商家、茶屋街、山村集落など日本の伝統的町並みを保存し、次世代に伝承しようとする狙いだ。

ここ50年ほど、高度経済成長と欧米文化に押されて、日本の歴史的建造物の多くが消えており、伝統的町並みを保存するのは急務で国の責任でもある。地元自治体にとっては観光に結びつくこともあり、保存にも力が入る。

同じような性質のものに、「小京都」と呼ばれる地区がある。京都のように、公家、武家、庶民文化が今に生きている町のことだろう。五箇山の隣、南砺市城端地区も越中の小京都と呼ばれている。

「みちのくの小京都」こと秋田県の角館は風情ある武家屋敷が残っている。伝統的建造物保存地区で、黒板塀に大きな門、それらに覆いかぶさるように美しいしだれ桜やモミ、ヒノキ、マツの古木が広大な庭に所狭しと茂っている。

桜の咲く頃は、大勢の観光客が押し寄せて一番の賑わいをみせる。静かな角館を楽しむなら、新緑や紅葉の頃もいいのだが、日中は年間を通じて観光バスも多く、賑わっているようだ。

土地の人の話では、近辺には宿泊施設が少ないので、朝夕は観光客も少なく、本当に静かだという。ただ観光地として有名過ぎるため、他の産業が育たず、若者が少なくここでも人口減少が心配されているらしい。

言われた通り、早朝の通りは静かだ。掃除をする人、犬の散歩の人、通勤、通学で自転車が通り過ぎる。普通の日常があり、カメラを向けるのがためらわれるぐらいだ。写真は角館武家屋敷で。

入館案内

船頭の美声に酔う

山形県・戸沢村 2016年10月12日版掲載

img_1019-640x427

江戸・元禄時代の俳人、松尾芭蕉(1644~94)は46歳の時、江戸・深川から東北・松島を通り、山形から日本海を南下し、北陸から岐阜・大垣まで全行程600里(約2400キロ)の遠大な旅に出ている。150日間にわたる旅の記録は、紀行文「奥の細道」としてまとめられ、現代まで日本人に長く親しまれている。

一番弟子の河合曽良を伴い、名所旧跡と地方の弟子たちを訪ねる旅の出発は3月27日。暖かくなるいい時期で、準備万端の旅立ちと言えよう。弟子たちと会える楽しい旅でありながら、1日に数十キロも歩くのは、当時の道路事情などから想像すれば過酷な日々もあったことだろう。

同じ元禄の頃、江戸城内で、ある藩の大名が腹痛を起こし、そこに居合わせた富山藩2代藩主、前田正甫(まえだまさとし)公が持参していた「反魂丹」を飲ませたところ、腹痛がたちどころに治まった。これをきっかけに富山の薬の評判が高まり、幕府が富山売薬に全国行商の許可を与えたのが「越中富山の売薬さん」の始まりと伝わる。

使った分だけ金額を支払う「先用後利」という独自のシステムを生み出した当時の越中人の発想は、400年近く経った今でも、社会に生き続けているのは驚くべきことだ。

芭蕉の旅とは中身も目的も違うが、全国北から南まで安心と信用と紙風船を届ける売薬さんたちの旅は、今流で言えば、日本の文化遺産に値すると思う。写真は芭蕉も東北の旅で乗ったであろう山形・最上川の舟下り。「五月雨をあつめて早し最上川」は、奥の細道の中でも有名な一句。今は観光船「最上峡芭蕉ライン」として営業しており、全国から多くの芭蕉ファンが訪れる一大観光地だ。船頭の小話と「最上川舟唄」の美声に酔いしれ、手拍子で盛り上がる楽しい1時間だ。

入館案内

漁港囲む 自然の地形

新潟県・村上市 2016年9月14日版掲載

img_5998-640x427

日本海側の漁港は、規模の小さいものが多い。高度成長期には、地方の小さな漁港にも補助金などで改修工事が行われたりして活気があったものだが、最近は静かなものだ。人影もまばらで、人口減や少子高齢化の影響からか、特に若者の姿が見えない港も多い。

その半面、日本列島の海岸線は自然の地形が豊かで、海沿いを走るドライブは、高速道路を走る味気なさに比べれば、天と地の差がある。漁港はもちろん海抜ゼロ㍍地帯に位置するが、住居も漁港を囲むようにして建てられている。

海が荒れた日は大変だろうと思うが、海で生活している人たちは、なるべく船の近くにいたいのだろうと思う。長い年月の中では、大きな災害や事故もあっただろうが、お互い知恵を出しながら生きてきたのだろう。雪国に住む私には分からないことだが、地球上には想像もつかない所で生活している人たちもいるのだから。

海辺のドライブは、能登半島のような半島巡りもいいが、佐渡島のように一周するのも楽しい。青森県のJR五能線と並行して走る国道101号は、北の地の厳しさも味わえる。

新潟県村上市から国道345号を北に向けて走る。車も少なく信号もない。海から国道とJR羽越線を挟んですぐに山だ。途中小さな集落が現れるが、今時のコンビニなどはない。名所「笹川流れ」にもあまり人影が見えない。もう少しばかり走ると漁港に出る。建物には新潟漁業協同組合山北支所とある。村上市寝屋地区。言葉で説明するよりカメラに収めた写真で見ていただくのが一番だ。

入館案内
2 / 1912345...10...最後 »







ホームへ戻る


おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


おやじの今月の一枚
相倉の四季