静かな日常 息づく

秋田県・角館 2016年11月16日版掲載

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全国約100の自治体が加盟する全国伝統建造物群保存地区協議会(伝建協)という組織がある。武家屋敷や宿場町、商家、茶屋街、山村集落など日本の伝統的町並みを保存し、次世代に伝承しようとする狙いだ。

ここ50年ほど、高度経済成長と欧米文化に押されて、日本の歴史的建造物の多くが消えており、伝統的町並みを保存するのは急務で国の責任でもある。地元自治体にとっては観光に結びつくこともあり、保存にも力が入る。

同じような性質のものに、「小京都」と呼ばれる地区がある。京都のように、公家、武家、庶民文化が今に生きている町のことだろう。五箇山の隣、南砺市城端地区も越中の小京都と呼ばれている。

「みちのくの小京都」こと秋田県の角館は風情ある武家屋敷が残っている。伝統的建造物保存地区で、黒板塀に大きな門、それらに覆いかぶさるように美しいしだれ桜やモミ、ヒノキ、マツの古木が広大な庭に所狭しと茂っている。

桜の咲く頃は、大勢の観光客が押し寄せて一番の賑わいをみせる。静かな角館を楽しむなら、新緑や紅葉の頃もいいのだが、日中は年間を通じて観光バスも多く、賑わっているようだ。

土地の人の話では、近辺には宿泊施設が少ないので、朝夕は観光客も少なく、本当に静かだという。ただ観光地として有名過ぎるため、他の産業が育たず、若者が少なくここでも人口減少が心配されているらしい。

言われた通り、早朝の通りは静かだ。掃除をする人、犬の散歩の人、通勤、通学で自転車が通り過ぎる。普通の日常があり、カメラを向けるのがためらわれるぐらいだ。写真は角館武家屋敷で。

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船頭の美声に酔う

山形県・戸沢村 2016年10月12日版掲載

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江戸・元禄時代の俳人、松尾芭蕉(1644~94)は46歳の時、江戸・深川から東北・松島を通り、山形から日本海を南下し、北陸から岐阜・大垣まで全行程600里(約2400キロ)の遠大な旅に出ている。150日間にわたる旅の記録は、紀行文「奥の細道」としてまとめられ、現代まで日本人に長く親しまれている。

一番弟子の河合曽良を伴い、名所旧跡と地方の弟子たちを訪ねる旅の出発は3月27日。暖かくなるいい時期で、準備万端の旅立ちと言えよう。弟子たちと会える楽しい旅でありながら、1日に数十キロも歩くのは、当時の道路事情などから想像すれば過酷な日々もあったことだろう。

同じ元禄の頃、江戸城内で、ある藩の大名が腹痛を起こし、そこに居合わせた富山藩2代藩主、前田正甫(まえだまさとし)公が持参していた「反魂丹」を飲ませたところ、腹痛がたちどころに治まった。これをきっかけに富山の薬の評判が高まり、幕府が富山売薬に全国行商の許可を与えたのが「越中富山の売薬さん」の始まりと伝わる。

使った分だけ金額を支払う「先用後利」という独自のシステムを生み出した当時の越中人の発想は、400年近く経った今でも、社会に生き続けているのは驚くべきことだ。

芭蕉の旅とは中身も目的も違うが、全国北から南まで安心と信用と紙風船を届ける売薬さんたちの旅は、今流で言えば、日本の文化遺産に値すると思う。写真は芭蕉も東北の旅で乗ったであろう山形・最上川の舟下り。「五月雨をあつめて早し最上川」は、奥の細道の中でも有名な一句。今は観光船「最上峡芭蕉ライン」として営業しており、全国から多くの芭蕉ファンが訪れる一大観光地だ。船頭の小話と「最上川舟唄」の美声に酔いしれ、手拍子で盛り上がる楽しい1時間だ。

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漁港囲む 自然の地形

新潟県・村上市 2016年9月14日版掲載

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日本海側の漁港は、規模の小さいものが多い。高度成長期には、地方の小さな漁港にも補助金などで改修工事が行われたりして活気があったものだが、最近は静かなものだ。人影もまばらで、人口減や少子高齢化の影響からか、特に若者の姿が見えない港も多い。

その半面、日本列島の海岸線は自然の地形が豊かで、海沿いを走るドライブは、高速道路を走る味気なさに比べれば、天と地の差がある。漁港はもちろん海抜ゼロ㍍地帯に位置するが、住居も漁港を囲むようにして建てられている。

海が荒れた日は大変だろうと思うが、海で生活している人たちは、なるべく船の近くにいたいのだろうと思う。長い年月の中では、大きな災害や事故もあっただろうが、お互い知恵を出しながら生きてきたのだろう。雪国に住む私には分からないことだが、地球上には想像もつかない所で生活している人たちもいるのだから。

海辺のドライブは、能登半島のような半島巡りもいいが、佐渡島のように一周するのも楽しい。青森県のJR五能線と並行して走る国道101号は、北の地の厳しさも味わえる。

新潟県村上市から国道345号を北に向けて走る。車も少なく信号もない。海から国道とJR羽越線を挟んですぐに山だ。途中小さな集落が現れるが、今時のコンビニなどはない。名所「笹川流れ」にもあまり人影が見えない。もう少しばかり走ると漁港に出る。建物には新潟漁業協同組合山北支所とある。村上市寝屋地区。言葉で説明するよりカメラに収めた写真で見ていただくのが一番だ。

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田舎の日常に絶景

兵庫県・香美町 2016年8月17日版掲載

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JR山陰線余部(あまるべ)駅は高い鉄橋が有名で、休日は全国から鉄道ファンが集まり、にぎやかだ。

明治45(1912)年築の鉄橋は、最近建て替えられ、橋脚の周りは公園のように整備され、不思議は風景だ。

余部から国道178号を宮津方面へ走るとJR鎧駅の標識が目に入る。国道からS字カーブの県道を下ると、集落が見えてくる。香美町鎧地区だ。山あいが狭く、道の両側にも民家が連なって建っている。小さな集落はすぐに海に突き当たるが人影は見えない。入り江の海は青く静かに波打っている。日本列島の静かな田舎の日常だ。

集落を写真に撮ろうと思っても自分の思いをカメラに収めるのは難しい。あまりに民家が近く、生活が近すぎてカメラを向けることをためらってしまう。

車を駅の方に走らす。JR鎧駅は山を背にした高台にある。無人駅で人影もなく駅前の2,3軒の民家も静かだ。駅の構内に「絶景への近道」とある。誘われるままに地下道をくぐり向かいのホームへ。すると空き地があり、そこから絶景を見て下さいとのことだ。

眼下に集落、左手に青々と日本海が広がる。何百年も続く日本海、そして日本の原風景が目の前にある。ホームの端から歩道が集落の方へ続いている。そこから見る集落は、私の一番好きな風景だ。

人々の生活のにおいがする。斜面には先祖の墓が集落を見下ろし、家の周りには生活が広がり、日本海に続く。いつかは消えるかもしれない風景を、都会に住む人たちに見てほしい。しかし、「いいところだね。だけどここには住めないわ。コンビニがないでしょう」と言われるのがオチなのだろう。

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北前船の足跡訪ねて

富山市東岩瀬地区 2016年7月13日版掲載

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昭和40~50年代、富山市・岩瀬浜の夏は、海水浴客で大賑わいだった。当時は夏休みにディズニーランドへ、という時代ではなく、家族で山や海へ出かけては自然と自由を満喫するのが、子供たちにとって一番楽しみだったと思う。

江戸時代から昭和初期まで、その岩瀬沖には「千石船」とも呼ばれた北前船が、帆に風をいっぱい受けて疾走していた。海原を走る景色は子供たちに夢と希望を与えていたことだろう。

北前船は、まだ陸路が整備されていない時代、北海道から北陸、下関、瀬戸内を通り、大阪に至る西回り航路を中心に、物流の大動脈だった。北海道の昆布やニシンを、北陸や関西に運び、代わりに塩や米などを東北や北海道に運ぶという効率の良さで、船主は大きな利益をあげていた。

重要な寄港地には、北前船を20隻以上も所有する豪商も生まれ、地元に貢献していた。しかし北前船の時代が終わると、名をはせた船主たちの結末もいろいろだったようだ。

北前船交易により、文化も行き来し、山形地方でひな人形文化が盛んなのも北前が運んだものである。青森のねぶた祭りや魚津のたてもん、能登地方のキリコ祭りなど、行灯に火が灯る祭りも、変化しながら伝わったものだろう。

富山市東岩瀬の北前船廻船問屋・森家住宅(国指定重要文化財)では、主屋や土蔵の造りから、当時の財力をうかがい知ることができる。写真は、森家の茶室に掛かる北前船の絵馬。船主が航海の安全を祈願し、寄港地の神社などに奉納したものだ。同様に各地の寄港地にある神社には多くの絵馬が掛かっている。祭りの日などを探して訪ねてみるのも一興だ。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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