日本産木材 活用の予感

秋田県・角館 2017年11月3日版掲載

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半世紀前まで、日本の山里に住む男たちは、子や孫のために家を建てるべく杉の苗木を植え、育てるのを楽しみにしていた。その後日本は高度経済成長時代を迎える。

昭和40年代、開港したばかりの富山新港はマイホームの建築ブームで、外洋材の輸入に伴い連日大型貨物船から木材が荷揚げされていた。当時私は、富山市で写真に関わる仕事を始めたばかり。富山新港の賑わいは刺激的で、暇を見付けては撮影に通ったものだ。大型貨物船の横を曳舟に引かれたイカダがポンポンと心地よい音を響かせていた光景が、今も鮮明に頭の中に残っている。その後の日本は過去を振り返る余裕もないぐらい先に進んだ。

これまで、建築用の木材は外国からの輸入にばかり頼ってきたが、里山保全のためにも自国の山に生い茂っている木々にも目を向けなければならない。近年、ようやく地場産の木材で家を建てようという動きが出てきた。山間地の国道沿いにも大きな木材置き場が整備されて山積みされているのを目にする機会も増えた。

秋田杉は全国に名が知られている。秋田市から国道46号を角館へ車を走らせていると、車の前を、大型のトラックが大量の木材を積み、国道わきの木材置き場に向かって行った。後を追うと、運転手が大型トラックの荷台に取り付けられた「グラップル」と呼ばれるロボットの腕のようなアームを動かしていた。丸太をわしづかみにしたアームは、何百㌔もの木材を順序よく並べていく。手慣れた操作でゲームを見ているようだ。日本産の木材の利用と活用が始まった予感がした。

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ランプの光 幻想的

青森県・青荷温泉 2017年10月6日版掲載

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日本は温泉大国である。北から南まで温泉のない地はほとんどない。日本人も昔から”裸の付き合い”と称し、温泉の中で地位や名誉を身体から外して日ごろのうっぷんを晴らすことを楽しんできた。

まだ庶民にテレビが普及していない頃、農閑期の湯治場と呼ばれる温泉地で、近隣の老若男女が芋を洗うがごとく、肩を寄せ合っている写真がある。みんなこれ以上ない幸せそうな笑顔である。

私の一人旅は、民宿やホテルでの宿泊が多いが、時には一軒宿の温泉に泊まることもある。特に東北地方は個性的な一軒宿が多い。設備は少し悪くても、料金は安いし家庭的でもある。

青森県の十和田湖周辺にも個性的な温泉地が多い。国道102号からカーナビ任せで山道を20分くらい走ると、青荷川渓流沿いにある一軒宿、青荷温泉に着く。「ランプが灯る幻想的な湯を巡る宿」とガイドブックにはある。

玄関を入ると、日中なのに薄暗い。目が慣れてくると、所々にランプが灯っている。山あいの宿だから、日中でも空だけが明るい。四つある湯もランプが灯っている。一人で露天風呂に浸かり、810㌔走ってきた汗を流す。

夕食の合図で大広間の食事処に入ると、天井からたくさんのランプが幻想的な光を放っている。これだけ多くのランプを磨くのも大変だろう。つい電気代と比べてしまう。夕食のビールも冷えていてこれもうれしい。自分で布団を敷き、ランプを見ながら電気のない時代の先人の暮らしをあれこれ想うと、なかなか寝付かれない。時計を見たらまだ午後9時だった。

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ど迫力 巨大ねぷた

青森県・五所川原市 2017年9月8日版掲載

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東北の夏は、各地で祭りが賑やかに開催され、土地の人々や観光客を楽しませている。

東北を旅して感じるのは、人々の力強さである。気候風土が厳しく、温暖な南の地方に比べれば生活環境は楽ではないはずだが、その分たくましさがある。空の色、空気感も違う。東北のエネルギーは、大地に根を張った大樹の力を感じる。

仙台の七夕まつり、秋田・竿燈まつり、山形・花笠まつり、大曲の花火など東北を代表する祭りは夏に集中している。その代表的な存在なのが、青森県内のねぶた祭りであろう。弘前のねぷた祭り(8月1日~7日)、青森のねぶた祭(8月2日~7日)、そして五所川原・立佞武多(たちねぶた)祭り(8月4~8日)があり、特に青森ねぶた祭には、開催期間中に約300万人の人出で賑わうというから、ただごとではない。

私は生の祭りを見ていないから、大きなことは言えないが、それぞれの地に見事なミュージアムが建てられ、ねぶたの展示、ビデオコーナー、体験コーナーなどで、1人でも家族連れでも一年中祭りの雰囲気を味わえる。

五所川原の立佞武多の館には高さ23㍍の巨大ねぷたが展示されている。大正時代に電気が普及したことと、戦後に起きた2度の大火で、設計図や写真が消失し、巨大ねぷたはいったん姿を消したが、市民の熱意で電線を地中化するなどして、巨大ねぷたは1990年代に復活。重さ19㌧、7階建てのビルにも匹敵する高さ23㍍ものど迫力のねぷたが生まれた。

館には祭りで練り歩く3体が展示され、1階から4階までのスロープで全体像が見渡せるように出来ている。途中、大型スクリーンで祭りの様子が映し出され、臨場感も味わえる。これだけ見せられると、一度は闇に浮かぶねぷたを見て、美と技と土地の人々の熱意を感じてみたくなる。

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古里に愛される太宰

青森県・小泊 2017年7月7日版掲載

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昭和の日本を代表する作家、太宰治(1909年~48年)を初めて目にしたのは一枚の写真だった。

昭和20年代、東京・銀座の酒場「ルパン」は若い文士のたまり場だった。坂口安吾、織田作之助ら無頼派と称された作家の中心に太宰がいた。当時、ルパンの2階に事務所を持っていた写真家、林忠彦が、彼らを撮った一連の人物写真は、若い作家の日常を、いかんなく伝え、読者の目を引きつけた。その中でも、ルパンのカウンターで撮影された太宰の写真は、文士の人物写真を代表する記念すべき一枚でもある。

太宰は青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市)出身。本名は津島修治。大地主、津島家の6男として生まれ、裕福な幼少時代を過ごしたが、地主の子として悩むことも多く、多感な少年時代を過ごしている。

金木町にある生家は、太宰治記念館「斜陽館」として公開されており、町の観光の中心で。ある。付近には、太宰が疎開していた家や津軽三味線会館、お土産物屋が並んでいる。金木町には他にも文学碑や銅像がいくつも建っているのはもちろん、津軽地方全体でも至る所に記念碑がある。日本広しといえども、一人の作家がこれほどまでに生まれた土地で愛され、語られ続けられるとは驚きだ。

小説「津軽」は昭和19年、津軽風土記執筆のため、3週間ほど旅して書かれた作品だ。古い友人と会い、酒を飲み、歴史をひもとく旅の小説で、最終章には、太宰が3歳から6年間、子守として奉公していたタケと、30年ぶりに小泊で再会する場面が描かれる。太宰はタケによって今の自分が形成されたことを確信する。

小泊にはタケとの穏やかなひとときが銅像として残る。横では「津軽」の文学碑が二人を見守る。

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海山が挟む空間

新潟県・親不知 2017年6月2日版掲載

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富山県から国道8号を東へ進み、県境を越えると新潟県糸魚川市市振に出る。そこから先が天下の険「親不知子不知」だ。市振から先10㌔ほどは、かつて旅人たちが波間を縫って命がけで先を目指したのである。

その名の通り、親は子を、子は親を守ることもかなわぬぐらいの難所だった。そんな難所にも1883年には北陸街道が通り、1912年には汽車が走るようになった。それから100年、日本は大きく変わった。

私が東京で生活していた昭和39(1964)年の東京オリンピックの頃、富山から東京へ行くには夜行急行を利用して約10時間の旅だった。当時は蒸気機関車で冷房もない車内は、窓も開けられず、車内は蒸し風呂のような状況だった。その頃、東海道には新幹線が走り、東名高速も開通し、日本は高度経済成長に入って行った。

北陸地方にも昭和40年代後半には北陸自動車道が開通し、一昨年には東京―金沢間を約2時間半で結ぶ北陸新幹線の時代となった。

元JR北陸線(現・えちごトキめき鉄道)に親不知駅がある。今は、駅を挟んで線路と国道8号、北陸自動車道が交差している。近くのトンネルを、北陸新幹線も走っている。新幹線の開業により、親不知駅には今、上下とも1時間に1往復程度しか走っていない。以前は、停車せず通過していた急行や特急も走らなくなり、寂しい限りだ。

海と山に挟まれた小さな空間に集落がある。すべての交通機関が集まり、にぎやかなようだが、地元が利益を受けているようには見えない。写真は親不知の全景。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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