田舎の日常に絶景

兵庫県・香美町 2016年8月17日版掲載

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JR山陰線余部(あまるべ)駅は高い鉄橋が有名で、休日は全国から鉄道ファンが集まり、にぎやかだ。

明治45(1912)年築の鉄橋は、最近建て替えられ、橋脚の周りは公園のように整備され、不思議は風景だ。

余部から国道178号を宮津方面へ走るとJR鎧駅の標識が目に入る。国道からS字カーブの県道を下ると、集落が見えてくる。香美町鎧地区だ。山あいが狭く、道の両側にも民家が連なって建っている。小さな集落はすぐに海に突き当たるが人影は見えない。入り江の海は青く静かに波打っている。日本列島の静かな田舎の日常だ。

集落を写真に撮ろうと思っても自分の思いをカメラに収めるのは難しい。あまりに民家が近く、生活が近すぎてカメラを向けることをためらってしまう。

車を駅の方に走らす。JR鎧駅は山を背にした高台にある。無人駅で人影もなく駅前の2,3軒の民家も静かだ。駅の構内に「絶景への近道」とある。誘われるままに地下道をくぐり向かいのホームへ。すると空き地があり、そこから絶景を見て下さいとのことだ。

眼下に集落、左手に青々と日本海が広がる。何百年も続く日本海、そして日本の原風景が目の前にある。ホームの端から歩道が集落の方へ続いている。そこから見る集落は、私の一番好きな風景だ。

人々の生活のにおいがする。斜面には先祖の墓が集落を見下ろし、家の周りには生活が広がり、日本海に続く。いつかは消えるかもしれない風景を、都会に住む人たちに見てほしい。しかし、「いいところだね。だけどここには住めないわ。コンビニがないでしょう」と言われるのがオチなのだろう。

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北前船の足跡訪ねて

富山市東岩瀬地区 2016年7月13日版掲載

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昭和40~50年代、富山市・岩瀬浜の夏は、海水浴客で大賑わいだった。当時は夏休みにディズニーランドへ、という時代ではなく、家族で山や海へ出かけては自然と自由を満喫するのが、子供たちにとって一番楽しみだったと思う。

江戸時代から昭和初期まで、その岩瀬沖には「千石船」とも呼ばれた北前船が、帆に風をいっぱい受けて疾走していた。海原を走る景色は子供たちに夢と希望を与えていたことだろう。

北前船は、まだ陸路が整備されていない時代、北海道から北陸、下関、瀬戸内を通り、大阪に至る西回り航路を中心に、物流の大動脈だった。北海道の昆布やニシンを、北陸や関西に運び、代わりに塩や米などを東北や北海道に運ぶという効率の良さで、船主は大きな利益をあげていた。

重要な寄港地には、北前船を20隻以上も所有する豪商も生まれ、地元に貢献していた。しかし北前船の時代が終わると、名をはせた船主たちの結末もいろいろだったようだ。

北前船交易により、文化も行き来し、山形地方でひな人形文化が盛んなのも北前が運んだものである。青森のねぶた祭りや魚津のたてもん、能登地方のキリコ祭りなど、行灯に火が灯る祭りも、変化しながら伝わったものだろう。

富山市東岩瀬の北前船廻船問屋・森家住宅(国指定重要文化財)では、主屋や土蔵の造りから、当時の財力をうかがい知ることができる。写真は、森家の茶室に掛かる北前船の絵馬。船主が航海の安全を祈願し、寄港地の神社などに奉納したものだ。同様に各地の寄港地にある神社には多くの絵馬が掛かっている。祭りの日などを探して訪ねてみるのも一興だ。

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40年前、フェリーで

山口県・下関市 2016年6月15日版掲載

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40年近く前、富山市の自宅から車で大阪港へ、フェリーで北九州に上陸し、佐賀県の有田町の問屋さんに行った。初めての九州だった。

高速道路もほとんど未整備で一般国道の旅。買ったばかりの三菱自動車製の新型車「ランサー」の乗り心地も快適で、長距離の運転も苦にならなかった。ずいぶん前のことだから、町並みなど風景などはあまり記憶にないが、有田の町は、焼き物で全国的に有名で、富山県の井波彫刻と同様に、地場産業が大切なことがよく分かった。

私を呼んでくれた友人の問屋さんも,2、3カ月に1度、ホテルや旅館を回って食器や道具を販売していた。当時は新幹線もなく、佐賀県から富山に来るだけでも幾度も交通機関を乗り換えな   ければならなかった。商品を運ぶにも、宅配便もなく難儀だったことだろう。当時の人たちのバイタリティーは、今の私などには到底まねのできないことである。

有田からの帰りは、日本海を2泊3日の旅だった。一般道路をなるべく海沿いの道を走ることにしたものだから、細い道やアップダウンの連続で風景を楽しむ余裕もなかった。当時はカメラもフィルム時代。今のようなデジタルカメラで思う存分シャッターを押せる時代でもなかった。

写真は、山口県下関市のみもすそ川公園から関門海峡と関門橋を臨む。1185年、源義経率いる源氏勢と、平宗盛総大将率いる平家勢が激突した「壇ノ浦の戦い」の戦場となった地。明治維新では、長州藩が蝦夷戦で外国船に砲撃した場所でもある。公園には、当時の長州砲が復元され、まるで関門海峡を守るように並んでいる。

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独自の姿 現代に 

新潟県・糸魚川市 2016年5月18日版掲載

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私の日本海写真の旅の始まりは2001年にさかのぼる。その頃、日本をテーマにした旅がしたいと長い間想い続けていた。

かつては日本の”表玄関”だった日本海側の地域は、戦後、”裏日本”と呼ばれるほど、太平洋側に比較して政治や経済面で差がつけられていた。高度経済成長とともに、高速道路や新幹線など、ほとんどの面で日本海側の開発は遅れをとっていた。

当時、「環日本海」という言葉が日本海側の首長や経済界の人たちから語られるようになった。政治や経済の交流を日本海を囲む国々で進めようとのことであった。ちょうどその頃、富山空港からロシア・ウラジオストク、中国、大連、韓国・ソウル便が飛んでいて、電車で東京へ行くよりも早く、約2時間でそれぞれの都市に着くことができた。私は2年間、日本海を囲むこれらの都市を、カメラ1台ぶら下げて旅して、写真集「環海」に仕上げた。

あの頃あんなに聞かれた「環日本海」という言葉も、今はほとんど聞かれなくなり、自分はこれで終わっては駄目だと思うようになった。それで次は日本海側の地域の日本に目を向けて、撮影の旅を始めた。フィルムカメラからデジタルカメラに替えて、北は青森県の竜飛岬から、南は山口県の下関まで長い距離である。

その間、日本は少子高齢化が進み、人口減の影響でかつては賑わいを見せていた国道沿いのレストランやパチンコ店は閉店されたままの姿が目立つようになった。それでも四季の移ろいや長い歴史に育まれた民族文化や祭りは、世界のどこにもない独自の姿で現代に伝わる。

写真は新潟県糸魚川市にある天津神社の春祭り。「一の宮けんか祭り」とも呼ばれ、2基の神輿が走り、ぶっつけ合う様はすごいの一言に尽きる。

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旅のかたち 様変わり

青森県・竜泊ライン 2016年4月13日版掲載

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昨年3月、北陸新幹線の長野―金沢間が開業してから1年が過ぎた。富山の観光地も金沢の街も予想以上の賑わいを見せている。私はいまだに乗車の機会を得ていないが、富山から東京まで2時間少々という時間は目的地に早く着きたい人たちにとっては大きな魅力だ。中には早過ぎて車窓風景を楽しむ時間もなかったという感想を漏らす人もいて、面白い。

私が18歳で上京した五十数年前は、五箇山・相倉からバスや冬季は庄川を船で下り、城端線を乗り継ぎ、高岡から夜行の汽車に乗り翌朝上野駅に着く長時間の旅だった。当時、普段は旅行客も少なかったが、盆と正月の帰省客だけは異常に多い時代。汽車は通路からデッキまで超満員で便所に行くにも覚悟がいったものである。これだけは写真や文章でどれだけ説明しても、経験した者にしか理解できないだろう。

その後、東海道新幹線が走り、日本は高度経済成長を続け、国民はそれ以前の日本を忘れようとしている。

今年3月には北海道新幹線が開通した。今のところ北海道の玄関までの開通で、札幌まではあと十数年かかるようで、まだまだ先のことのようだ。北陸新幹線も大阪までは、まだまだ先のことで、いつになるやら分からない。

今や、旅は飛行機や新幹線で目的地に早く着き、そこからバスやレンタカーでゆっくり回るのが主流らしく、各地の道の駅では最近、時間と金がある高齢者の利用者も増えているらしい。旅の目的が人それぞれ違い、個性も見えるいい時代なのだろう。

写真は青森県の竜飛岬から小泊までの竜泊ライン。まだ9月半ばなのに、ここまで来る車の数は少ない。冬季は雪と凍結のため閉鎖される。北国の冬は厳しい。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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