大切な宝 次代へ

新潟県・柏崎市 2015年6月10日版掲載

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日本列島は、南北に長く変化に富み、東西は日本海と太平洋に面して文化も風土も違う。日本民族のDNAは歴史、文化、食と、長い年月で培われ、島国独特のどこにも似ていない成長を成し遂げたと思う。

旅の面白さは、どこにいても土地のにおいや景色も違うからいつもわくわくする点にある。一人旅だと話す相手もいないから、街並みや農村、漁村を目で追いながら、頭の中を次から次へといろいろな事柄が駆け巡る。

日本海側は少し前までは”裏日本”と呼ばれた時代もあった。北陸新幹線開業を、100年に一度のチャンスと表現する財界人や政治家もいるが、太平洋側では50年も前に新幹線が走り、ようやく追いついただけのことである。

私の人生70年ばかりの中で、今の日本は一番バランスの悪い社会を作っているのではないだろうか。ささいな理由で起きる殺人事件、大企業を中心にした弱者との格差、三十数%という食料自給率事情、貧困児童が十数%もいる先進国・・・・・。億単位の海外援助の話を聞くと矛盾を感じるのは私だけだろうか。

私の行く日本海の村々の神社の境内は、かつては子どもの声や祭りでにぎわったであろうが、今は閑散として人影も見えない。近年まで聞かなかった認知症老人が田舎にも増えている。子どもの声をやかましいと嫌う老人も増えているとも聞くが、これも理解できない。

それでも、先人から受け継いだわずかの土地を、大切な宝として守り、野菜作りに励んでいるお年寄りを見ると頭が下がる。

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多様で奥深い能登

石川県・輪島市 2015年5月13日版掲載

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北陸新幹線の開業、NHK朝の連続テレビ小説「まれ」の影響で、今夏の能登はいつもと違うにぎわいをみせ、熱く燃えることだろう。

私が初めて能登の撮影に出掛けたのは、昭和45年ごろの夏で、道路の砂ぼこりを巻き上げて車を走らせた。富山から先端まで一周すれば400キロ近く。1日の行程とすればハードである。

能登は自然、歴史、文化に恵まれ、奥深く個性的で、日本のどこにも似ていない所が好きだ。富山湾に面した静かな海、日本海に面した外海は男性的で荒々しい。大陸文化との交流、北前船の往来による繁栄、キリコに代表される祭りや食文化、加賀文化に影響を受けた伝統工芸と多様である。漁に出ている若者や都会に出ている人々は、盆や正月には帰省しなくても、キリコなど地域の祭礼には帰って来る。

ところが最近の能登は、日本の他の地方と同じように少子高齢化で人口も減り、活力が低下しているように思う。若者の仕事がなく都会に行かざるを得ない。祭りもかつての元気はない。新幹線の開業で、にぎわいを取り戻してくれたらと願っている。

東京出身のキリコ会館の元館長、藤平朝雄さんは、だれよりも能登を愛し、能登の文化を発信している。カメラマンの渋谷利雄さんは能登の隅々まで知り尽くした「地方のカメラマンの見本」のような人。建築家の高木伸治さんは温厚な輪島のお兄さんで、チェコを一緒に旅した。民宿「さんなみ」の船下さん夫妻とは家族ぐるみのつきあいだ。皆さん優しく温かい。いつまでも元気でいてほしい。

写真は冬の日本海。作業は危険で大変だ。

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木の間から仏の姿

大分県・豊後高田市 2015.4.15版掲載

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今日、私たちの日常に宗教の影は薄い。子どもの頃、遊び場はお宮さんの境内で、雨の日は寺の本堂がかくれんぼの場所だった。大人たちは神社や寺の前では頭を下げ、何かブツブツ願い事をしていた。神社や寺院の境内もかつては、どこも出入り自由で、拝観料などはいらなかったのに、今は観光地になって一年中混雑しているところも多い。

京都の街も昔は「二・八」と言って、2月と8月は寒さや暑さで観光客も少なく静かだった。少なくとも私が高校1年生だった約50年前、京都の親せきの家で過ごした夏はそうだった。

大分県・国東半島は、神仏習合の地として、日本でも最も有名な聖地であろう。大分空港から車で40~50分、山間の道は、すれ違う車も少ない。標識を頼りに進むと胎蔵寺に着く。12月の粉雪の舞う日で、観光の車も2、3台。静かなたたずまいの小さな寺だ。

山道を少し登り、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の石段を100段近く登る。巨大な岩に刻まれた日本最大といわれる大日如来と不動明王の磨崖仏が木の間から現れる。高さは、大日如来像は6.8メートル、不動明王像は8メートル。堂々たる貫禄である。山頂の熊野神社の権現が仏の姿で現れたもので、どちらも頭部は鮮明に刻まれているが、下は自然石のまま地面に埋没したように見える。

神と仏は、昔はもっと親密だったのに、明治政府の神仏分離政策で無理矢理別れさせられたのだ。私の家では、今でも神棚と仏壇が同じ部屋で仲良く並んでいる。写真は国指定史跡で重要文化財の熊野磨崖仏。近くにも多くの磨崖仏があり、臼杵市の国宝・臼杵石仏も有名だ。

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山と海と教会と

熊本県・天草市 2015.3.11版掲載

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明治40(1907)年夏、5人の若き詩人が九州を旅した。与謝野鉄幹をリーダーに、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里。いずれも20歳代の学生であった。

東京を出発して約1カ月かけての旅は、九州、中でも熊本県・切支丹遺跡と、大井天主堂のフランス人宣教師、ガルニエ神父に会うことが目的だった。

明治25(1892)年、天草に着任したガルニエ神父は、住民から親しまれ、尊敬されながら清貧な生活を送っていた。情報の少ない時代でありながら、ガルニエ神父の人となりは東京にも届いていたのだ。

雲仙や長崎、天草と、聞き慣れた土地名でありながら、異国のにおいがするのも、日本の中では特別だ。島では平地が少なく、車は山あいを縫うように走り、海岸沿いの道路は南国らしく大きなシュロの木の下を走る。目指すは崎津カトリック教会。1569年に建てられ、天草がキリスト教中心のまちになった教会でもある。現在の建物は昭和9(1934)年の建築。国が五島列島の教会群を世界遺産に登録推薦しようとしている”顔”でもある。

崎津は、山と海に挟まれたわずかの平地に家並みが軒を連ねている。教会は奥まった所に静かにたたずまいを見せている。隣の民家では、おばさんが干物のおみやげ作りに一生懸命だ。シーズンオフで観光客もなく、堂内はひっそりしている。正面に向かって、なんとなくお寺のようにお参りをした。車で10分ほど走ると大江天主堂に着く。昭和8年完成の天主堂は山の中ほど、集落の一番上にある。明治40年の若者は、汽車と馬車と徒歩でここまで来た。私は飛行機と車での旅。中身が違いすぎる。

写真は羊角湾を挟んで望む崎津カトリック教会。美しい尖塔が特徴的だ。

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大噴火から90年

鹿児島県・桜島 2015.2.11

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昨年末に九州を旅した。今回は、日本海から離れ、鹿児島県・桜島について書く。

55年前、高校生の時に雑誌で見た1枚の写真が今も目に焼き付いている。写真家、奈良原一高(1931年~)は、早稲田大大学院時代に九州を旅し、長崎県・端島(通称・軍艦島)にカメラを向け、桜島の黒神村(現在は鹿児島市)にも足を伸ばした。1957年、「人間の土地」と題して一連の写真を中央公論に発表している。

端島は、島全体が炭鉱労働者と家族が暮らす1つの町で、当時の日本のエネルギー政策を象徴する土地だった。周囲はコンクリートで固められ、緑が少ない印象だった。

私の記憶の1枚は、桜島の黒神村の地中に埋没した鳥居の写真である。大正13(1924)年の桜島の大噴火は、687戸あった村の家屋をはじめ3㍍以上もあった鳥居までも地中に埋めてしまった。当時の村長が噴火のすさまじさを後世に伝えようと、鳥居の上部を掘り起し、今に伝えている。

私の住む五箇山は豪雪地帯ではあるが、その他の自然災害は少ない。1枚の鳥居の写真から、人間の手が届かない自然のエネルギーと人間の関係を感じたのではなかろうか。私もちょうど写真に強くひかれ、将来は写真家の道を志そうと思い始めたころだった。

現在、鳥居は観光客も見学に来る観光スポットになっている。裏手には黒神中学校がある。校庭の職員に話しかけると、いろいろと話してくれる。現在中学の生徒数は5人で、教職員は16人といい、まことにぜいたく。当分、統合の予定もないそうだ。校舎の裏は桜島。頂上から噴煙が上がっている。地下の活動は大正の大噴火から変わらないという。

噴火から90年。日本も大きく変わった。天災、人災、何が起きても不思議ではない。私たち人間も、もう少し謙虚に生きることが大切ではないかと思うのだが。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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