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「親雪」の時代に 富山県・菅沼合掌造り集落

2020年3月6日(金)版掲載

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私が住む富山県南砺市の五箇山地方は日本有数の豪雪地帯で、国道にトンネルが開通する三十数年前までは「陸の孤島」と呼ばれていた。

寒波の襲来ともなれば鉛色の空から1週間でも昼夜雪が降り続き、3~4日で1~2㍍も積もり、多い年では5㍍にも達していた。除雪機も無い時代、スコップと人力で日夜雪と格闘したものだ。

3年前、新潟県津南町を訪ねた時、「日本一の豪雪の地」ということで積雪量がグラフで表してあった。私の所と大きな違いはないと思ったものだ。

ところが今年の降雪、積雪は経験したことがない少なさだった。私も後期高齢者の仲間入りをしたが、1月末まで畑で大根の収穫が出来るなんて、生まれて初めてだ。もしかして先人がこの地で居を構えて初めてのことかもしれない。

今時、3~4㍍降っても昔のように生活に支障をきたすこともないが、昔は豪雪にまつわる悲劇もたくさん聞いた。1945(昭和20)年は豪雪の年で、2月に大雪の峠を越えて出征兵士を町まで送り、帰りに村人3人が雪崩に巻き込まれて亡くなった。私の住む地区で、働き盛りの当主ばかりだった。3人も一度に亡くすというのは、雪国といえどもこれ以上の悲しみはない。

今、雪の恐ろしさを知る人は年々少なくなっている。現代は「親雪」の時代。おいしい水が飲めるのも、お米や野菜がおいしいのも雪の恵みである。雪が降りやみ、晴れた朝の村の風景は神々しく、まさに自然が神が創造したものと強く感じる。

写真は世界文化遺産に登録されている菅沼合掌造り集落のライトアップ。この風景を求めて世界中から人々が集まる。

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静かに眠る聖地 中国・西安市

2020年2月7日版掲載

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初めて中国を旅した1979年、同国は四つの近代化(農業、工業、国防、科学技術)達成のため、外貨の獲得に最も力を注いでいた。その中心だったのが観光事業だった。

西安市は北京の南西に位置し、中国でも歴史ある街で、日本の奈良や京都とも友好都市の関係にある。西安市で今、観光スポットとして人気が高いのが世界文化遺産にも登録されている「兵馬俑(へいばよう)博物館」だ。兵馬俑は1974年、近くの農民が井戸掘りの作業中、偶然発見した。古代中国で死者を埋葬する際に兵士や馬車をかたどったものを副葬したという。

私たちの訪問は、7月。中国の友好県からのお客さんということで、公開前の見学が許可された。当時、国慶節の10月1日一般公開を目指していた。体育館のような巨大な建物は230㍍×70㍍もあり、室内には6000点以上という陶製の武士像が土中から空に向かって整列し、異様な光景だったのを覚えている。

発掘現場から約1.5㌔離れた場所に「万里長城」を築いた中国史上最大の権力者、秦の始皇帝の陵墓があり、高さ116㍍、周囲2.5㌔と、小高い丘のようだった。一面ザクロの木で覆われてはいるが、権力者の墓にしてはシンプルであり、山そのものが眠りについている感すらあった。

私が再度その地を訪れたのは8年後の1987年のこと。始皇帝陵の頂上に向かって歩道の両脇に観光客向けのお土産店がびっしり並んでいた。両手にお土産品を持った売り子が声をかけてくる。日本のどこかにもある風景だが、8年間の変わりように驚かされた。

写真は79年当時の始皇帝陵。石碑が建っているだけで静かな聖地の顔である。

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道は麦でいっぱい 中国・太原市

2019年12月6日版掲載

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中国に旅した1979(昭和54)年、日本は東京五輪、大阪万博の成功で自信をつけた頃で、中国は遅れた国のように見えた。北京駅から夜行列車で大同に向かう混雑は、昭和35年ごろの上野駅の混雑と同じようで、中国に来たのだと強く感じた思い出がある。

北京、大同の次に訪ねたのが、外国人旅行者を受け入れたばかりの太原市だった。当時は人口200万人ほどの工業都市で、町には活気がみなぎっていた。歩行者や自転車の往来が激しいが、日陰ではゆったり時を過ごす老人も多かった。中国独特の風景だろう。

太原市には仏教の聖地も多い。文化大革命と「四人組」の時代、僧侶は地方で労働に従事していたとのこと。今は当時より数は少ないものの寺に戻って日常の活動にいそしんでいると話す表情も明るかった。

市内から約70㌔離れた山中に、中国浄土教の聖地、玄中寺がひっそりと建っている。以前は多くの僧侶がいたが、当時は7人の僧が勤行の日々を送っていた。日本からの仏教関係者の訪問者も多く、私たちを好意を持って迎えてくれたのは旅の途中の安らぎだった。

また太原市は酒好きには忘れられない地でもある。アルコール度数65度の名物「汾酒(フェンチュー)」、45度の「竹葉青酒(チューイエチンチュー)」で知られる。工場視察はお昼少し前、もちろん昼食は工場の幹部を囲んで乾杯、乾杯の連続で、日本側は早々にダウンして終了した。中国の銘酒に”乾杯で完敗”だった。

写真は麦刈りの時期、道路は麦でいっぱい。馬車や自動車が踏みつけて、脱穀する仕組みで、大勢の農民が車が通る度に広げたり集めたりして、忙しく動き回っていた。ちょうど40年前の中国の一面だ。

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お願いすると一列に 中国・大同市

2019年11月8日版掲載

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私が10代~20代の頃、ヨーロッパには多くの著名なカメラマンがいた。彼らの写真は人間を写し、時代を写し、戦争を写し、日本の社会とは全く違う世界を私に届けてくれた。写真を目にする度に、ヨーロッパに憧れと夢を抱いたものだ。

当時の私には東京に出て写真の社会に身を置くことが精いっぱい、海外に出ることは夢のまた夢だった。

富山市内で写真でなんとか生活していた30代半ばを過ぎた頃、知人から中国旅行の誘いを受けた。当時の私は中国について、毛沢東、周恩来、文化大革命、四人組、万里の長城などわずかな知識しか持ち合わせていなかった。

日本と違う大国を自分の目で見る機会を与えてくれたこの誘いを、海外に出るチャンスとばかりに参加したのが1979年、北京、大同、太原、西安の2週間の旅だった。

中国が外国から旅行者を受け入れる準備を始めたばかりで、大同や太原の宿泊所は、役人などが利用していたもので、建物も古く設備は悪い。食事は口に合わないものが多く、持参した梅干しが大変役に立った時代。それでも訪問先の都市は日本とは違うスケールの大きい建造物や文化で、圧倒されたものだった。現在、世界遺産に登録されている雲崗(うんこう)の石窟では記念写真を撮る私たちを多くの中国人が取り囲み、戸惑ったことも楽しい思い出だ。

忘れてはならない大同炭鉱だ。1937(昭和12)年、日本軍の占領から45年に終戦まで、過酷な労働で中国人労働者約6万人が犠牲になったとされ、「万人坑」として保存、歴史の証となっている。心が重く忘れられない。

写真は大同の宿舎の近くの農家。家族総出の麦の刈り取り作業を写真撮影したいとお願いしたら、一列に並んでの記念写真となった。

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穏やかな笑顔で歓迎 中国・北京

2019年10月4日版掲載

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今回は日本海を挟んだ向こう側のお話。私が初めて海外旅行に行ったのは1979年の中国旅行だった。前年に開港したばかりの成田国際空港は人影もまばらで、日本人の海外旅行はまだまだ少ない時代だったのだろう。

私が参加した旅行団体名は「富山県各界訪中団」といういかめしい名前だったが、県庁OBの団長のほか、大学教授、建設会社の社長、幼稚園長ら好奇心旺盛な人たちの集まりで、旅は楽しいものだった。

受け入れ側の中国は旅程や目的などを事前に通知済みで、夜ともなれば中国の要人も出席する夕食会で乾杯、乾杯。強いお酒で盛り上がり、二日酔いが続いて頭がガンガン、日中の見学が大変だったことを思い出す。

その頃の中国では、昼寝の習慣が残っていて、バスの運転手は昼休みに2時間ばっちりと休み、こちらも付き合わされたものだった。

約2週間、北京、大同、太原、西安と巡った。朝夕は自転車の多いこと、田舎に行けば子供の多いことなど、私の子供の頃と同じような風景が、30歳半ばを過ぎた私の目に映った。当時は文化大革命(1966~76)が終わり、平静を取り戻しつつある頃で、人々の顔も穏やかで、私たちにも笑顔を見せてくれた。物はなくても今日のように格差や競争社会、一人っ子政策もない時代。いい時だったのだろう。

私たちも、富山県南砺市福光町出身で日中国交正常化に尽力された政治家、松村謙三(1883~1971)氏の地元からのお客さんということで、手厚く歓迎された。私たちは今、中国からのお客さんを迎える立場。先人の努力と勇気に報いなければならない。写真は北京で。

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おやじについて

顔写真
池端 滋
いけはた しげる

1942年相倉生まれ
52歳まで東京と富山で
カメラマンとして生活
現在は妻と2人で民宿経営

写真集・連載・著書


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